昭和45年6月15日 朝の御理解 (末永信太郎) №45-熊02
御理解第33節
お供え物とおかげは付き物ではないぞ。
お供えものとおかげは、つきものではない。どんどんお供えをすれば、おかげが頂けれるというようなことではない、というわけですね。ところが、実際はお供え物とおかげがついているんですね。ですから、お供え物とおかげが付き物ではないぞというところをですね、やはり、御用とおかげは付き物ではないぞ、という風にもだいたい頂けるわけですよね。
ここんところは、信心は御用なりとさえ言われる方達があるぐらいですから、信心はお供えなりと言うてもいいわけですよね、おかげが受けられるんですから。ね。信心はさっさとお供えをすることだ、と。信心とは、さっさと御用をすることだ、と。おかげは付き物ではないと仰るけれども、おかげが付いてるんだと、実際は。だから、金光教はじまって110年、やっぱり一生懸命、御用御用と言うて、御用をさせて頂いておかげを頂いて来た、やはり事実と言うかね、それがあるわけです。
お供えでもどんどん出来りゃ、やはり、それだけ、やはり御用が出けたわけであり、いわゆる、それが、それがとおかげをやっぱ頂いておるということである。今朝、私は頂きましたことの中に、叶えながら教えるということ。叶えながら教える。叶えるということは、願いを聞いて下さるということですよね。
ですから、けっきょく、この辺のところでですね、どうかなっとるごたる風ですよね、信心が。金光様の御信心はこの辺のところに、まあ、言うならば本当の信心が頂けない落とし穴があるようですね。ね。そして、けっきょく、御用とかお供えとか、ね、ただ、手続きを大切にするとか、というようなことに落ち込んでしまってる。ね。教祖はそこんところに、おかげは付き物ではないと仰っておられることはね、これは、いわば、本当のこと。または、その、極端な表現。本当を言うたら、信心はね、御用じゃない。本当を言うたら、信心はお供えじゃないて。ね。
または、手続きを大切にするといったようなことではない、信心による本当のおかげというものは。ね。そこんところを、いわば、お供え物とおかげは付き物ではないと仰っておられる。ですから、御用と、ね
、おかげは付き物ではないと、いわば、教えられる方が実を言うたら本当なんです。ところが、実際はどうかと言うと、なら、そういう例えば、なら、一生懸命にお参りをする、一生懸命御用をする、一生懸命お供えをする。それだけで、神様がおかげを下さってある事実があるじゃないか。ね。
だから、信心は御用なりといったようなことにまでなって来る。ね。例えば、その、御用とかお供え物とか、手続きを大切にするといったようなことはね、実を言うたら、もう、当然当たり前のこと。ね。これは、おかげを頂くから、頂かんからじゃない。信心によって、言うなら、奉仕の心が分からされる。神恩報謝の心がいよいよ強うなるならね、もう、当然、手続きは大事にしなければおられんのであり、お供えは(惜しい足蹴のう?)させてもらうことによって、奉仕の一端とさせて頂き、ね、御用すなわち奉仕である。
奉仕をさせてもらわなければおられんのである。それが、どの辺のところからか、奉仕をすれば御用は( )なしとか言う。これなんかでも、やっぱそうですね。
軽う見たらおかげはなしと、断言しておられるのにも関わらず、軽う見てもおかげは下さってある。えげつないまでに人を軽う見る人がある。それでも、やっぱり毎日参って来てお願いをすりゃ、おかげを受けておる。ね。ですから、ここんところでも、やはり人間を本当に軽う見たらおかげはないぞと言うて聞かせて下さってあるのですから。ね。
これは、人間だけじゃない。物でも金でも、ね、それを丁重に丁重に扱わせて頂けれるほどしの私になって頂くおかげならば、本当なものなんです。ね。人を軽う見るだけじゃありません、物を軽う見るだけじゃありません、お金を軽う見る。すべての事柄でもそうです。ね。それを、言うなら軽視する、甘く見るわけですね。その、なら、甘く見ながらでも、やはり、なら、おかげを受けておる。
今日、私はそういうところに、例えば信心させて頂く者の、言うならば落とし穴に填まったように、それから出きらずに、それでもおかげは受けられる、叶えては下さる。ね。神様のお心としては、叶えながら教えてやるというところがあるんだけれども、教えてやるという、そこんところは落とし穴の中に入っとるもんじゃけん出きらんです。ね。
昨夜も御理解研究会があっておりました。もう済んだ頃に、私もちょっと入らせて頂いて、どういうところの、まあ、御理解研究を皆さんなさったか、聞いてみたんです。ほうして、まあ、色々お話をさせて頂いたわけですけれども。私がここで、まあ、一生懸命唱えるように言うておることは、ね、おかげは和賀心にあるのだ、と。だから、その和賀心というものを、誰にでも分かるように説明をして、ね。なるほど、和賀心になろうと本気で思うただけでも、おかげが頂けるほどしの素晴らしいこと。
しかも、それが自分の和の心が、賀の心がどのようなものであるかということを極めて行っておかげを受けたら、もう、そこには問題すら無くなり、または、願わんでもおかげが受けられるていうのが、和の心、賀の心だということを言ってるわけ。
それを誰にでも分かるように、一生懸命、いわば、唱えるようにここで私が言うておる。ところが不思議なことにね、信心を少しばかりしておるとか、まあ、熱心にしておっても同じですけども、本当にそうですなあ、と言うて私の言うことに共鳴する人が非常に少ない。どういう訳であろうか、と。ね。
むしろ、最近、あのおかげの泉なんかの反響から考えてです、むしろ、信心のない人で何かを求めておる人。こんなこっじゃいかんぞといったような、何かを心の中に目指させて頂こうとしておる人達の方がです、すっきりと分かられるという事実があること。これは、私もそれを実際思うんです。
なぜ、そういうことになった、本当言うなら、信心によっておかげを頂こう、お徳を受けようという人ならばです、私が言うことには飛びついて来なければならんのに、なぜ飛びついて来ないか、と。それは、今私が申しました、落とし穴の中に入っておるからですよ。
そげなこっじゃなか、もう、手続きさえ重んじて大事にして行きゃ、おかげは頂かれる。手続きを流れて来るおかげという風に思いこんでる。いや、そげなことはなか、もう、御用さえすりゃ助かる、御用すりゃ、それはおかげ頂くと思いこんでる。ね。
けれども、そういうことでですね、おかげを受けるということが、今日のことで分かったですね。そういうことでも、おかげが受けられる状態、参っただけでもおかげは受けられる。実は、おかげはないと仰る、おかげは付き物じゃないと言いながら、ね、その辺のところをですね、私は(言外の言?)というかね、教祖様仰ろうとしておる、その向こうの心というものを分かることが、信心だと思う。
お供え物とおかげは付き物ではないと仰るけれども、なら、お供えだけ一生懸命すりゃあ、どんどんおかげを受けておる人がある。それは、それだけおかげ頂いとる人が、事実あることは事実、間違いないです。もう、神様のことになりゃ、そんかわり、惜し気もない、味気もない。他のことは(北野?)行ったっちゃ、神様の方だけは美しくという人があります。もう、金光教の信者の中にはたくさなります、それが。
ね、それ〇〇教なんかは、例えば、まあ、中にはね、一生懸命御祈念すりゃ助かるという。若先生の学院の友達の中にですね、もう、ものすごう、その、癌の病気が助かるという教会がある。これは、もう、大変な御祈念力だそうですねえ。町内中がですね、ちょうど夏の御祈念の修行の時に、マイクをもって、また実を言うたら拝まなければおられんのであり、お供えしなければおられんのであり、御用させてもらわなければおられんのであるということ。
けれども、それは信心のどこまでも、それは枝葉のこと。ね。私が和賀心、和賀心と、こう。なぜ、和賀心、和賀心と言わなければならないか、と。それは、この70年という年柄のことから、いつも例を申しますようにですね。私は昨日、その、あるご本を読ませて頂いておりましたら、最近、もう世界でも二番ぐらいですかね、経済力が豊かなのは、日本は。この頃戦争に負けたと言いよったが、もう、戦争の道具やらどんどん作りよる時にゃそうなかったけれども、戦争のそういうこと止めて、いわゆる、経済力というものが非常について来た。
それで、その、日本人のことをね、金儲けの動物だと言ってる。しかし、これはもう、本当に適切な言葉だと思うですね。金儲けの動物なんだ。というほどしに成り下がっておるということ。これは、まあ、日本人だけのことじゃありますまいけれど。ね。金儲けの動物に成り果てておる。ね。繁栄を、いわば動かしつつです、心の貧困は、もうその極みに達しておるというのが、この70年で、そこのところを見極めさせてもらわなければならない年だという訳なんです。ね。
世界で2番目か3番目かと言われるほどしの金持ちになったと、日本が。けれども、それを第三国者の目から見ると、日本人は金儲けの動物だ、と。あのお金をです、例えば、世界の隅々のです、難儀をしておる、例えばインド辺りでは、今、餓死があってるそうです、食べ物がないために。昨日、その話し合いの中に出たんですよ。本当にもう、条件なしでね、インドにどんどん余っとるという米ば送ってやるわけには行くまいかち言うてから。青年らしい考え方なんです。ね。
ただでやるとがいかんなら、後から、まあ、いつでも良いから払ってくれとか、船賃だけは出してくれとかというぐらいなことです。どんどん有り余っておるという米をあちらに送ってやるわけにはいくまいか、と。ね。世界のいわゆる情勢というものが、どのようになっておるのか、と。どこに狂いがあるのか、と。ね。けっきょく、人間の心の貧困、貧しさというものがです、心の貧しさというものがです、そのような結果を呼んでおるという、ね。
様々な文明、様々な言うなら、まあ、原始時代とでも申しましょうかね。人間が月の世界にでも行けるほどしの、いわば発達を遂げた中にあって、なら、人間がこれで幸せになるのじゃない。どんなに金を儲かっても繁栄して行ってもです、ね、心が貧しかったら、人間の幸せはないんだというところにです、おぼろげながら気付かせて頂きよるというのが今年だ、と。ね。
そこで、私はそういう例えばところに、そういうことに、この70年という年柄が大変な意味を持った年柄だから、どうでもですね、そこに、いわゆる和賀心時代というものを目指させてもらう信心が必要じゃないかと、必要だと。それで、私がいわゆる、和賀心、和賀心ということを一生懸命に唱えるけれどです。ね。その和賀心ということに、本気でそれを、和賀心に取り組もうとする人、また、それを、いや、そげん、和賀心にならんでん、おかげは頂いとるという事実があるもんだから。ね。それに、飛びついてこない。
むしろ、信心のない人、信心の薄い人。けれども、何かをそこに求めようとしておる人達の方が、だから、私が言う和賀心学とかということが、かえって、はあ、そうだという風に分かられる向きが強いということ。だから昨日も、その、青年会の方達がね、それこそ、昨日もあの、吉田松陰のお話が出ましたが、たまたま、やっぱり、その青年の方達が、テレビであの吉田松陰というのをやっておったそうですね。
あれを見ておると、本当に、昨日の話じゃないけれどもね、こうすればああなる、ああすりゃこうなる、ということは分かっておっても、こげなしよりゃ、自分がいわば処刑にあうことは分かっておるけれどもです、国のことを思うたら、止むに止まれん大和魂ということになっておるようにです。ね。
なるほど、松陰は亡くなったけれどもです、その教えを受けた青年達がです、あの明治維新と言われる、新しい時代をつくりあげたんだ、と。そういうものがね、私は、今の合楽の、まあ、小青年の方達の中にですね、浸透して行きよるという話をしております。かえって、この中学生辺りの、まあ、熱心に打ち込んでおる人達がですね、それこそ大学を目指しておる人達が、僕お道の教師になろうかちいって言うとがおるち言うんですからね。そして、今、親先生が言われる、その和賀心ということをです、本当に少しでも沢山な人に伝えて、世の中の幸せを願う、と。それこそ、吉田松陰の門弟達がですね、松陰は処刑された、亡くなられたけれども、その意思をついて、あの明治維新という大きな偉業を成し遂げたというわけなんですね。
だから、そのくらいなね、いわば、願いとか迫力とかですね、いわゆる、命がけと言うならば、そのくらいなものがです、私は、その、皆に伝えよう、分かってもらおうという意欲があって欲しいと言うのですね。そん為には、やはり、まずは私ども自身が、その和賀心というものを勉強し、和賀心を身につけ、しかも和賀心になれば、このようなおかげが受けられるという、そのおかげを引っさげての、いわば世界布教でなからなきゃならないという訳なんです。ね。
そして、まあ、今日の33節のところの御教えをですね、今日、結論付けますとです、ね。お供えとおかげは付き物ではないと教えられておられながら、ね、人を軽う見な、軽う見たらおかげはなしと教えておられながら、軽う見てもおかげを受けておるという事実。ね。お供え物とおかげは付き物じゃないと仰せられながらです、お供え物の御用がどんどん出来りゃおかげが頂けて、信心な御用だと、もう、それに頭が固まってしもうとる。なるほど、おかげを受けておる。それは、決して、なら、嘘ではない。ね。
何かの理というものがあって、例えば、その、神様との交流が少しはあっておるから、おかげを受けておるから、もう、それで信心はそうだと思い込んでしもうておる、と。ね。神様のおかげを十二分に受けようと思えばね、ままよという心を出さなければと仰る。もちろんそうですが、ね。
それよりも、もっと私は大事なことはです、おかげは和賀心にありと極言しておられる御教えがある。究極はそのところだと、まあ、皆も言うてはおるんですから、その究極のところをです、私は今年こそは、そうだと一つお互いが確信を持って、和賀心に打ち向かって行くという。ね。その和賀心というものをです、もっともっと深めて行き、また、和賀心にならせて頂くための一生懸命の修行であるといったようなです、おかげを受けなければです、それはやはり、人にも伝えて行くことは出けない、と。ね。
世界中が、いわば繁栄の一途というか、ね。いわゆる、様々ないわゆる機械文明とでも申しましょうかね。けれども、その機械に使われれるほどしのことになってしもうておったり、ね。その繁栄を言いながら、謳歌しながら、心の貧困さ、その貧しさというものはです、もう、人間の心が地に落ちてしまっておる。
ですから、金儲けの動物と言われても仕方がない。だから、金儲けるためには、もう、信心でも何でも利用うしてから、お供えさえすりゃ、どんどんおかげは頂くといったようなことになって来るわけ。ね。金儲けの動物が、信心までも利用して、いわゆる、金儲けのことに血道をあげて。ね。そういう事ではです、教祖が仰る、お供えとおかげは付き物ではないぞと仰る、そのもう一つ向こうの心。だから、本当言うたら、どがしこお供えしたっちゃ、どがしこ参って来たっちゃ、おかげをピシーッと下さらないとですね、こげな心にならなければおかげを頂かれんと仰るから、そういう心にならなければおかげを下さらんならです、まだ早分かりがするかも知れんのですけれど。ね。
お供え物をすりゃおかげを頂く。一生懸命参りゃおかげを頂く。手続きを大事にしよりゃおかげを頂く。一生懸命御用すりゃ、おかげを頂くという事実があるから、そういう事実だけれどもです、それは本当のことではない。それは、まあ、言うならば、信心の落とし穴のようなもの。本当を言うたらその先にです、ね。叶えながら教えて下さるという、そこのところが、神様の願いなんだ。その教えて下さるというところを、今、合楽では一生懸命、まあ、修行させてもらっておる、勉強させて頂いておるという訳なのである。
だから、合楽の方達だけはそこに落とし穴に入らずにです、ね、本当のところに出らせてもらうところのおかげを頂かなければならんという訳になります。ね。御取次を頂けばおかげを頂ける。なるほど、御取次を頂けば、おかげを受けておる。けれども、御取次を願って頂いて行くということはです、やはり、教えを頂いて行くこと。その教えの焦点が和賀心だということになります。
お供え物とおかげは付き物ではない。和賀心におかげは付き物ぞということを、もう一つ、もう少しここに付け加えなければならんように思います。ね。どうぞ一つ、そういう、私は和賀心に伴うて来るおかげ。そこんところにです、ね、おかげが受けられる、そのおかげの中からね、一心のお参りがさせてもらわなければおられんのであり、ね、世のお役に立つことのためならば、一生懸命のお供えもさせてもらわなければおられんのであり。ね。一生懸命の御用奉仕もさせてもらわなければならんという事になる時です、信心が本当な事になって来ると思います。ね。
それを、逆にしたところでです、ね、半端なところで信心が何とはなしに止まっておるような気がする。それは、私が言うなら(たくを)叩くようにして言うておっても、そげなことは、そうかも知れん、いや、そうだと。けれどもね、けれども、御祈念すりゃ、しかし、癌の病気でもどんどん助かっとるから、もう、そげなことは、面倒臭かちゅうごたる風な雰囲気があるように思う。ね。
一生懸命、御祈念をしただけで助かった。一生懸命お供えをしただけで助かったなら、それはもう、助かっただけにしか過ぎんじゃないですか。ね。それを助からなければならんために、本気で和賀心を勉強させてもろうた、和賀心を自分の身につけさせて頂いたらです、ね、そのことのおかげでです、ね、もう、例えば願わんでも、または自分の心のいわゆる貧しさではなくてです、心の豊かさというものが、そのことによって頂けるじゃないですか。ね。そこんところを願いとしての信心を、私は日々皆さんに聞いて頂いとるわけでございますよね。どうぞ。